ぱれった・けやきの日々
○精神障害者共同作業所『作業所けやき』、病院敷地内から移転する
「病院にデイケアができるんだって?」「じゃあ作業所はどうするの?」「デイケアに吸収合併されればメンバーたちにもいいと思うよ」
こんな会話が行われていたのが平成9年の夏頃でした。病院のPSWだった私も、何の疑間も抱かずに「デイケアに吸収されてしまえば、スタッフの身分も安定するし、治療的なプログラムや給食も実施されるだろうからメンバーにもいいはずだし、第一自分の仕事量が減る」と考えていました。
病院内に精神障害者共同作業所が誕生したのが平成元年9月のことです。共同作業所とはいっても、その頃「日頃寝ていることの多い入院患者さんを何とか動かしたい」「みんなでここで何かをしたい」という漠然とした気持ちから始まったものです。内容は「近所の工揚から電子部品の内職」を分けてもらいみんなでそれに取り組むといった感じです。しかし、それを行う場所は、病棟からは少し離れた、それまで倉庫として使われていた木造の建物(病院とは構造がまるで違う建物)だったので、「病棟から外に出かけている」といったイメージがありました。さらに、外来通院の人たちにまでも「来たければどうぞ」としていたために、私としてはそこを「共同作業所」と位置づけていました.
はじめは楽しかったです。お昼を挟んで一日4~5時間のみんなで行う内職作業。いろんなルールを作り、病棟の生活とはなるべくかけ離れたものにしようと意識しました。私もPSWという職種ではありますが、ほとんどそこにこもりっきりで同僚には迷惑をかけたと思います。病院の敷地内ということもあり、「具合が悪い人が出ればすぐ対処してもらえる」という意識のもと、服薬のことも、金銭的なこともほとんど考えずに、「とにかくここで世聞話でもしながら内職をして、しかもいくらかの小遣いになるだろう」ぐらいにしか思っていませんでした。ここでやっていることは少なくとも積極的な治療ではないし、またここで積極的に訓練をして社会復帰!、という意識もあまりなかったと思います。ましてや、今は声高に言われている「地域とのつながり」云々ということなども頭になかったです。
この「共同作業所」が病院として始めたものならば、より治療的な要素を前面に押し出すのが本来かもしれませんが、どちらかといえば院内の方針でできたものでもないし、ある職員たちがかってに何か始めている、ような雰囲気でした。
しかし、その後院内家族会ができ、共同作業所へ国庫補助金が交付される、という話を聞いたあたりから様子が変わっていった感じがします(平成3年頃)。前述の「作業所」は補助金を受けるにあたり専任の指導員を雇う羽目になり、ある篤志家から寄付を受けたりで体制は整いましたが、訓練の揚所として位置づけられていったような気がします。そして正式名称も「作業所けやき」と決まりました。
その後しばらくは指導員の交代など、紆余曲折がありましたが、基本的な路線としては「ただあるだけでいい場所」「何となくみんなが通って内職作業をしている場所」「でも基本的には就労前訓練のような」の場として機能していったような気がします。
○共同作業所移転!~「けやき」の転機は私の転機~
しばらくして(平成9年10月頃)転機は訪れました。私の勤務する病院に入院する患者さんの家族から、「病院からは少し離れた揚所だけど、自分の物件を何かに利用できないだろうか」という申し出があったのです。冒頭に書きましたが、この頃には病院デイケアの話が出てきており、運営主体である家族会としても、「共同作業所はデイケアに吸収されてしまった方が、利用者のためになる」と思い始めた頃でした。
もともと院内にある共同作業所であり、「共同作業所が院内にあっていいのか、それが地域の中にあるということになるのか?」という意見があったのは事実。それがデイケアに吸収されるということで、私としては「もうそれらの意見について考える必要がなくなる」という安易な考え方になっていました。「共同作業所は地域の資源である」という認識に立てなくなっていたことを表してたと思います。各地で共同作業所が急増していたころの話しでもあり、まるでそれに逆行するかのような考え方だったと思います。
しかし、「このまま共同作業所がなくなってしまうことは誰にとってもいいことだ」という考えが9割がたを占めていたところにその申し出。共同作業所の運営主体である病院家族会への申し出ではなく、PSWである私への相談という形で舞い込んできた、本来ならば願ってもない話でした。
○『ぱれった・けやき誕生』
どうしたらいいか、もっと深く考えればいいものを、そのとき私はその申し出に対して「共同作業所を移転して、病院とは違う場所でやってみたい・・・」と答えていました。相手も「じゃ、そうしましょう。」ということで、その揚所を借りて共同作業所とする方向が簡単にできあがりました。もちろん具体的な考えなどはこの時点ではありません。
それまで「共同作業所がデイケアに吸収され無くなってしまえば、それがみんなにいいことだ」と思っていた私でしたが、思わず口をついて出た言葉が「共同作業所の移転」でした。きっと頭のどこかに「病院内に共同作業所があるなんて変だ」という誰かの意見があったのだと思います。そういわれたがために、「もう一度、病院外で」という思いと、一番始めに共同作業所を始めた頃の「みんながここで何かしていたい」という思いがあらわれたのだと思います。
それからは運営主体である家族会役員会での話し合い、承認が得られると、新しい共同作業所の改装などめまぐるしく動きました。そしてこの間に、新共同作業所の方向性を探るべく、毎週話し合いがもたれたのです。(一方で病院デイケアも開設され、数名のメンバーはそちらへ移籍しました。)
その移転準備会議は、今までのように私と指導員だけでなく、今回物件を提供してくださった方、家族会の会長、当共同作業所のスタッフ、他の共同作業所のスタッフ、近所の事業所の方(あとで職親になっていただきました)、医師、役所の職員、など多様なメンバーで構成されました。そしてその中では具体的な話というよりも、「なぜここで作業所を行うのか」というもっとも根本的な間題から話し合いました。話はかなり盛り上がりました。やっぱり、こんな題材で話し合いを持つことは必要なことだった、と思います。ちなみにその話し合いは「けやきミーテイング(運営委員会)」と称して、現場の話から哲学めいた話まで何でも話し合えました(これはその後5~6年ほど続きました)。
そして方向性が決まりました。『なんでもあり』です。実に曖昧な方向性だと思いますが、そのときのわたしたちには必要な発想でした。今まで病院という枠の中で、というより医療という枠の中で行われていたような共同作業所だったため、多様さには欠けていました。ですからこの「なんでもあり」は、多様性という意味合いだったと思います。
また、新共同作業所の名称も決まりました。「ぱれった・けやき」。「ぱれった」は絵の具を溶くパレットのこと。「ぱれった・けやき」というパレットの中で、ここに関わるすべての人がいろんな色を出していけたら、という願いが込められています。
それからは現場でどんな活動を行うのか、が現場のスタッフを中心に話し合われました。「内職はやめようね」「集団アルバイトはどうかな」「夜の部をメンバーのたまり場にしたらどうか」「宿泊できるようにしようか」「メンバーだけでなく、地域の人も集まれるような何かはできないかな」「やっぱりお金がもうかったほうがいいな」。
「なんでもあり」効果といってもいいと思います。いろんな考えが堰を切ったように流れ出しました。あんまりありすぎて困ったくらいです。そしてそれをもとに活動が始まっていきました。